彌櫻月で判子を作った初期の望玄

彌櫻月で判子を作った初期の望玄。

アラサーで見た目の衰えが激しく、明らかに疲労困憊な私は怯えながら暴力的な男と川崎で同居していた。

台湾から訪ねて来た当時の友人を家に招いて私の部屋に泊めた事がムカついたらしく、帰った翌日には私の部屋は私の目の前で同居人に荒らされ、私は泣いた。

趣味だったミニチュアの1つ・バレリーナの足は折れ、まるでクルミ割り人形の有り様だった。

盗撮盗聴及び科学装置虐殺されていたのをアラサーでは気づかず、1人で部屋で泣いた私は仕事がてんで見つからない日々に立場は弱く、ただ同居人の男の暴力に耐え、暇潰しに何も考えなくてすむゲームに没頭した。

川崎競馬場からすぐの新築マンションに住んでいたので、懐かしい馬の育成ゲームが楽しく、産まれて来る子馬に名前をつけてシュミレーションの試合に出し、最初はレジェンドが誕生し易いゲームのようで、1・2頭目で銅像に成った名馬の名前が、サクラムーン(櫻月)だ。

自分で育成したその名馬にあやかり、小説家の名前として彌櫻月にした時期に、判子を作ったのだ。結局、櫻だとすぐに散るなぁと彌冬月に変更し、その後も転々と名前が度々変わったけど、本質的に読み方は変えていない。